近代農業技術のあけぼの
明治に入り、江戸時代以来の内藤家の邸宅地と周辺地計17万8千坪(59ヘクタール)を購入した大蔵省は、明治5年(1872)に牧畜園芸の改良を目的として「内藤新宿試験場」を設けました。
明治6年、新宿試験場の業務は、大久保利通を内務卿とする内務省の勧業寮に引き継がれました。場内には、牧畜掛、樹芸掛、農事修学所、製茶掛、農具掛、農学掛などが発足し、勧業寮新宿支庁が置かれました。「広く内外の植物を集めて、その効用、栽培の良否適否、害虫駆除の方法などを研究し、良種子を輸入し、各府県に分って試験させ、民間にも希望があれば分ける」ことを目的として、国家規模での農業技術行政の取り組みが行われました。
当時は、欧米から種子や苗を買い入れるほか、ウイーン万国博から持ち帰ったもの、中国まで出張して探してきたものなど、さまざまな方法で植物を集めていました。明治7年に試験場内に農業博物館が完成し、種子や材木の見本、肥料、紙、骨格標本、鉱物、土壌、また、農業や動植物などに関する書籍や辞書のほかに、音楽書など幅広く収集しました。場内には2,000種以上もの植物が生育し、分類見本園も計画されていたということです。
明治8年には試作した外国果樹が結実し、選抜した優良品種を各地に送りました。当時の試験場の畑は、水田、穀物畑、蔬菜園などの7園に分かれていましたが、さらに桑畑、茶園などが加わり、明治10年には栽培植物数も3,000種を超えました。同年、110平方メートルの西洋式温室が完成し、明治4年に設置された開拓使青山試験場の温室とともに、日本の西洋温室の先駆けとなりました。
場内では植物栽培だけでなく、鳥などの畜産の飼育や、養蚕、製紙、製茶の試験研究も行われ、試作が始められた缶詰は、のちに製品として払い下げられるようになりました。
